「帰還」
1.
海は凪いでいた。
夜の風が心地よい。
少年は久々に懐かしい潮のにおいをじっくりと嗅いだ。
ここはトリトンが育った猪の首岬の近くの海だった。水平線の向こうに灯台の明かりが見え隠れする。
トリトンはトリトン族と呼ばれる海の一族の一人だ。
遠い昔、伝説のアトランティス大陸の高度の文明が生んだ海棲人類の末裔だった。
しかし、同じ海棲のポセイドン一族と対立し、その追跡をさけるため、陸にあずけられ、
13歳まで陸の人間として日本の漁村で暮らした。
そしていま、ようやくポセイドン一族との戦いを終え、今一度、育った村を訪れたのだった。
彼の側には生まれた時から守ってくれる、白いイルカのルカーがいた。
ルカーは何もいわなかった。
「大丈夫。挨拶してくるだけだから。」
トリトンは自分に言い聞かせるようにいった。
「トリトン、必ず帰ってきてね」
人魚のピピが心配して言う。解ってはいても不安だった。
まだ人魚の姿をしているピピには陸は恐ろしいところだった。
トリトン族の女性は子供の頃は人魚の姿をしているのだ。
そのため、彼女はアザラシとともに成長した。故にヒトの社会を知らない。
だが、トリトンは陸人と同じ姿をしている。陸で育ったトリトンには陸は故郷同然なのだ。
そのまま陸に帰ってしまうかもしれない。
「何、心配してんだよ。いくら育った村だからって、オレはあの村にはもう住めないんだから。
じっちゃんの様子をみてくるだけだよ」
「トリトン気をつけて」
たまらずルカーが心配して口をはさむ。
「ルカー、ごめん、わがままいって」
「わかってます。一平じいさんは、あなたの親みたいなものです。
信心深いあの人に、私も安心してあなたを預けました。でも・・・
あなたは私にとっても大切な息子と同じなのですよ・・・。」
「わかってる・・・ありがとう、ルカー。必ずもどってくるから・・・」
トリトンは夜の海に身体をすべりこませた。
今日は満月だった。
講の集まりがあり、一平は少し酔っていた。
吾助と別れた後、一平は粗末な自分の家の玄関にたどりついた。
真っ暗な明かりのない家に、あらためて一人暮らしの寂しさを痛感した。
還暦はとうに過ぎた一平だったが、背筋はしゃんとし、白い鬢と禿げ上がった額に風格があった。
だが、かつて共に暮らした少年の面影を思うとき、その背中にどうしようもない老いと淋しさが宿る。
溜息を少しつき、一平は玄関の引き戸をあけた。
「・・・ただいま・・・といっても誰もいないか・・・」
一平は戸を閉め、鍵をかける。
「今日の酒はいまひとつじゃったの・・・」
いつのまにかついた独り言のくせが、いっそう淋しかった。
草履を脱ごうとしたとき、声がきこえた。
「じっちゃん」
一平はもう一度溜息をついた。「やれやれ、酒に弱くなったかの。幻聴がきこえる」
「じっちゃん!」
さっきより大きな声だった。確かに聞こえた。あの声だ。すこし低くなっているが、あの声だ。
一平は急いで茶の間にあがり、部屋の電気をつけた。
一平は目をみはった。
土間のたたきに人影がある。
そこにはいるはずのない彼がいた。
「・・・・トリトン・・・??」
少年はじっと一平を見つめている。緑の髪に白い服だ。
手に赤いマントを握っている。あの日、自分が用意した衣装だ。少し服が汚れている。
それは少年が長い旅をしてきたことを示している。
少年の目は大きくうるみ、今にも泣き出しそうだ。何かいいたげだが、言葉にならず、唇が震えている。
一平はゆっくりと少年の方に近づいた。一歩一歩ゆっくりと近づいた。
目は少年からはずさず、瞬きもしなかった。一瞬の間に彼が消えてしまうように思ったからだ。
少年はそのままだった。少年の目は大きく見開いたままだ。いたずらっぽい茶色の目が輝く。
一平はおそるおそる少年に手をのばした。
慎重に肩に手をかける。潮の香りがした。
確かに手応えがあった。少年は一平を見上げる。
「トリトンか」
少年は黙ってうなずく。目が涙で溢れる。
「本当におまえか。幽霊じゃないな。」少年はもう一度うなずく。涙が首を振るとこぼれ落ちた。
「背が伸びたな」
トリトンは笑みをうかべながらうなずいた。何か言おうとしたが、しゃくりあげてしまった。
「よう陽に焼けちょる。元気だったか」
トリトンは涙をうかべながらも、はにかんだ。
「お前の手だ」
一平はトリトンの手を握りしめ、つぶやいた。
「お前の髪だ」
一平はトリトンの髪をなでる。トリトンの目から涙があふれてやまない。
「たしかに・・お前だ・・」
一平はトリトンを抱き寄せた。
「じっちゃん・・・!」
そのとたん、トリトンは大声で泣き出した。嗚咽があとからあとからでてきて、言葉にならない。
こんなに泣いたのは何ヶ月ぶりだろう。つらい戦いや旅の記憶が脳裏を駆けめぐった。
すべてを一平に話したくなった。でもすぐに、もうそんなことはどうでもよくなった。ただうれしかった。
「よう、帰ってきた・・・帰ってきた・・・!」
一平も泣いた。男泣きに泣いた。
二度とこの手に抱くことはないと思っていた愛しい子だった。
13年間、育ててきた「海からの授かりもの」だった。
海に返すのは当然、と思ってはいたが、それでも別れはつらかった。
しばらく脱力し、漁にもでられなかった。
だが、今こうして再び成長して戻ってきた。
一平はあらためてこのトリトンが自分にとって大きな存在であることを痛感した。
ひとしきり、2人で泣き合った。
その後、一平はトリトンに向き直り、尋ねた。
「一人か?」
一瞬、涙で汚れたトリトンの顔がこわばった。ためらう視線に一平は「事情」をさとった。
一平はトリトンの親同様である。しばらく離れてはいても表情から読みとる感情は的確だった。
「あの白いイルカがいっしょか」
「じっちゃん・・、オレ・・その・・・」
「いい、いい、いわんでいい。あまり長くいられないようじゃな」
「・・・ごめん・・・その・・・他にも仲間がいて・・・、陸に上がれないんだ・・・。」
一平はトリトンの成長を感じていた。
この子は知らぬ間に海で暮らし、仲間までいるらしい。おそらく、陸人とはちがう姿をかばっているのだろう。
そんな気を使うまでに成長しているトリトンを一平はいじらしく思った。
「でも今晩ぐらいは泊まれるんじゃろう?」
「うん・・・」
「おまえ、ずっと土間に立ちっぱなしだったのか?」
「だって・・・、畳がぬれると悪いから・・・」
「水くさいヤツじゃ。ここはお前の家じゃぞ。とにかくあがれ」
一平はトリトンをひっぱるようにして茶の間にあげた。
「茶をいれてくる。講の集まりでもらった菓子がある」
「いいよ、そんなの、それにお腹、すいてないし。」
「座ってろ。ワシも飲みたいんじゃ。」
一平は台所に消えた。湯をわかす音が聞こえる。
懐かしい生活の音にトリトンは嬉しくなった。一平は時々茶の間をのぞく。
トリトンがまた消えてしまうのではないかと不安なようだった。
しばらくぶりの一平の家は少し小さくなったように思えた。奥を見ると自分が使っていた
小さな机がそのままになっている。トリトンは嬉しく思った。
教科書やノートがあのときのままに並べられている。胸が一杯になった。
一平は自分の帰りをまっていたのだろうか。
再び、この家で暮らし、元の生活にもどることを信じていたのだろうか。
そのまちわびていた一平の気持ちを思うとまた涙がトリトンの目からこぼれた。