「帰還」

4.

湯からあがるとちゃぶ台の上に、にぎり飯と味噌汁があるのに気付いた。
沢庵もあった。トリトンの好物だ。
トリトンは湯でほてった身体に浴衣をひっかけ、ちゃぶ台に座った。
「用意がいいなあ・・・。じっちゃん・・・」
トリトンはにぎりめしをほおばりながらつぶやいた。酸っぱい梅干しがまたうまい。
沢庵の食感が歯に心地よい。味噌汁は冷めていたが、それでもほんのりと暖かさが底にのこり、心が和む。
トリトンは朝食をとりながら考えた。
確かにじっちゃんのところに来てよかった。元気で暮らしているのを見て安心した。
でももう、これ以上いてはいけないような気がする。
じっちゃんは午後まで待て、といったけど、もう甘えてはいけない、と思った。
トリトンは、筆記具と紙をさがしに、茶箪笥をのぞきにいった。

「ええと・・・・なんて書こう・・・。まいったな。手紙なんて苦手だし・・・」
トリトンはつぶやきながら、何度も書き直した。洗ったばかりのぬれた緑の髪をかきあげながら、
書いては消し、書いては消した。
紙が数枚丸まってちゃぶ台のまわりにころがる。字なんて書くのは何ヶ月ぶりだろうか。
漢字が思い出せない。
それにじっちゃんに手紙なんて初めてだし。
四苦八苦しながら、トリトンはようやく短い手紙を書き終え、ちゃぶ台の上にのせた。


物干場から生乾きの衣装を引っ張り、急いで身にまとう。
衣装からは洗剤の香りがツン、とした。マントを肩にひっかける。
「じっちゃん、ごめん・・・オレもう行くよ・・・。色々ありがとう・・・」
無人の家に向き直り、トリトンは小さくつぶやく。
裏口からでて、戸をしめ、簡単に鍵代わりに棒をつっかえておく。
トリトンは出来るだけ人の通らない道を選んで、海辺を目指して歩いていった。

海岸におりる狭い道を抜けたとき、後ろから声がした。
「これ、そこの人!」
トリトンはギクリとした。思わず振り返る。
そこには車いすに座った老婆がいた。髪をひっつめ、渋い色のちゃんちゃんこを着ている。
忘れもしない、あのオトヨばあさんだ。この人にはロクな思い出がない。
村の網元の後家なのだが、村長よりも発言力があり、みんな村ではこの老婆のいいなりだった。
意見を言うのはいつも一平ぐらいだった。
そして、常に自分を「区別」して扱っていたような気がする。
表だっては言わなかったけど、さりげなく、トリトンを排除するのだ。
そして、一平がいると何食わぬ顔で普通に振る舞うのだ。そういう裏のある態度がものすごく許せなかった。同時にトリトンは、一平がいかに自分を守っていたのか改めて気が付いた。

トリトンは大変な人に見つかった、とほぞをかんだ。だが逃げ出すわけにもいかず、その場に立ちつくした。
「あんた・・・ちょっと待ちなさい」
オトヨは車いすから立ち上がり、杖をつきながら、ゆっくり近づいてきた。
「お義母さん、あぶないですよ」
車椅子をおしていた中年の女性が心配そうにオトヨを支えようとする。
「ええ、一人で大丈夫じゃ」
オトヨはせっかくの介添えを拒否する。
オトヨはトリトンの近くにきて、トリトンを頭から足先まで厳しい目でじろじろと眺めた。
トリトンは早く終わってほしいとおもった。何をいわれるんだろう。
もうオレは海に還るんだから、 あんたの邪魔はしないよ、と言いたかった。
でも実際には無言でオトヨを見ていただけだった。
「ああ、あんた・・・やっぱりそうじゃの・・・。ありがたいこって・・・。」
オトヨはトリトンに向かって手をあわせ、拝み始めた。トリトンは驚いた。
「恵比寿様がきなすったようじゃ。今年も豊漁をお願いしますだ」
オトヨは手を合わせながら、何度もお辞儀をする。念仏をとなえているようだった。
トリトンは驚いて見つめるばかりだった。
ほんの少ししかたっていないのに、オトヨはずいぶんと老け込んだように見えた。

「さ、お義母さん、もういいでしょ。」
女性はぶつぶつとつぶやくオトヨを誘導し、車椅子にすわらせる。
トリトンの方を不審な目でみつめつつも、丁寧にお辞儀をして、車椅子を押していった。
つられてトリトンも頭を下げた。去っていくおトヨと付き添いの女性をしばらくぼうっと見送る。
トリトンは我に還り、また海岸にむかって歩き出した。
「・・・変なばあさん・・・・。ぼけちゃったのかな・・・・」
道が開け、崩れた岬が見えてきた。
 

砂浜の向こうに岩がごつごつと続き、その上に突然大きな壁のような岬がみえた。
猪の首岬はこの村の象徴だった。
堂々と海に突き出た岩が威容をほこる岬は、遠くからでもすぐわかり、漁師達の目標だった。
だが、その岬は今は中途からぱっくりと切り取られたように割れ、無惨に崩れたままだった。
裾の方には不粋な立ち入り禁止の仕切りが並び、「崩落危険」と書いてあった。
あの時、怪物が頭をぶつけ、衝撃で岬も崩れてしまった。
トリトンはあらためてポセイドンとの戦いのすさまじさを思い起こして身をすくめた。
岬の上はもともと風化しており危険だとされ、立ち入りが禁止されていた。
それでも人目を盗んでは登り、岬の上から吹く風に心地よさを感じたものだった。
絶対に今日は解らないと思ったら、どこで見ていたのかいつも帰ると一平に叱られた。
一平には隠し事は出来ないと思った。
それに今になって一平が岬に登ったことをひどく叱った理由が解るような気がした。
ここは自分が「置かれていた」場所だからだ。
岬の下は急に深くなっており渦が常に巻いていた。泳ぎに自信がある者でさえ、ここは敬遠した。
だが今はその渦も柔らかく海流が変化するだけである。岩石の落下により、潮の流れが変化したためだろう。
岬の前の浜は大きく湾曲していて、子ども達の遊び場だった。そしてここは学校への近道でもあった。
学校のことを思い出していたとき、岬の裏側からひょっこりと女の子が現れた。
赤いランドセルをしょっている。
女の子はトリトンを見るなり、岬の岩を駆け下り、トリトンの方に走ってきた。
トリトンはしまった、と思った。
ついつい人目につかないように、とすることを忘れていたからだ。
トリトンは海に逃げようとした。
「ねえ、待って!トリトンのおにいちゃんでしょ!」
声が飛んだ。聞き覚えのある声だった。
「ミッちゃん?」
トリトンはあらためて走ってきた少女をみた。
良く一緒に遊んでいた友人の、ケンタの妹のミツコだった。

 

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