「帰還」



ほどなく熱い茶と、焼き菓子がならんだ。その横につんと酒かすのにおいがする。
甘酒だ。青い湯飲みに入っている。以前、トリトンが使っていたものだ。
「おまえ、これが好きだったじゃろ。ちょうど、残ってたんじゃ」
トリトンはおどろいた。そういえばひな祭りのとき、よその家でもらってから、甘酒ばかりねだって
いた頃があった。そんなことを覚えていてくれたのか。
トリトンの表情がほころんだ。
「なんか・・・お客さんみたい・・・」
「はよう飲め、さめちまうぞ。それにおまえは客じゃない。ワシんとこの子だ」
トリトンはもったいなさそうに少しづつ飲んだ。いささか季節はずれだが、懐かしさと甘さに
気持ちがなごむ。それを嬉しそうに見つめる一平の顔がしわと笑みでしゃくしゃになった。

「おまえに謝らねばならねえことがある」
一平は突然、切り出した。
トリトンは怪訝な顔をして一平を見た。
「謝るって何を・・・?」
一平はたばこを持ち出した。火を付けながらつぶやく。
「おめえの・・・生まれのことな・・・。いずれ話すつもりじゃった。
・・・・・十五ぐらいになればきちんと話そうと思っとった。」
トリトンはじっと煙草をくゆらす一平を見つめていた。懐かしいじっちゃんの煙草の香り。
前は煙にむせたが、今はそれもひどく貴重な香りに思える。
「じゃが、十一ぐらいだったか、お前が。どっかから聞いてきたんじゃろな。お前は捨て子だってことを。
派手にケンカして・・・。その時、本当のことを言え、とお前は迫った」
トリトンは思い当たる事件を回想していた。
そうだ、学校で大げんかになって、ガラスも割っちまったんだ。担任の先生もけがしたんだ。
あの先生はなんて名前だったっけ。
海で暮らすうち、陸での記憶が曖昧になっているのをトリトンは自覚した。

「その時な・・・、迷っちまったんだ、ワシは。本当のことを言おうかどうしようかと・・」
「今お前が着てる服や剣も見せようかと思った。いつまでも隠し通せるもんでもないでな。」
一平は遠くを見る目をした。煙をすうっとはき出す。
「どうして・・・言わなかったの・・・?」
トリトンは小さな声で尋ねた。思えばじっちゃんとこんな話をしたことがない。
日常にまぎれ、改めて話をしたことがないことに気付いた。
「・・言えば・・・お前が遠い遠いところに行ってしまうような気がして・・・言えんかった・・・。
ワシはお前を手放す勇気がなかったんじゃよ・・・。まだ、早い・・いや、もっと一緒にいたい、
出来ればずうっとな・・・。」
トリトンは、また泣きそうになった。
あの時、自分は一平にずいぶんひどい言葉を浴びせた様な気がする。
本当の父や母の写真を出せと騒いだことも思い出した。あの時は荒れ狂っていた。
髪の色もそうだが、自分が皆とちがうのがひどく疎ましかった。
人より早く泳げたし、息も長く続いたが、そんなことはちっとも嬉しくなかった。
皆、自分と距離を置いているのがイヤでならなかった。
その意味を尋ねても一平はただ、いつか解るときが来る、と突き放すだけだった。
その態度に不満を覚えていたが、逆に一平に守られている、という安心感がトリトンを
包み、不安が消えていたのだった。でもあの時ばかりは怒りが爆発した。
一平をなじり、「うそつき」と呼んだ。その時頬にビンタが飛んだことを思い出した。
「じっちゃん・・!謝るのはオレの方だ!オレ・・オレ・・何もわかってなかったんだ!」
トリトンは涙声になっていた。今度は一平が驚いてトリトンを見つめる。
「オレは・・・まだ子どもだったんだ・・・だから・・・だから、じっちゃんがまだ早いって・・・
それで、話さなかったんだ・・・!悪いのはオレの方だ!」
トリトンは顔を覆い、ちゃぶ台に突っ伏した。
また泣きじゃくるトリトンの肩を優しく一平は包んだ。
「もう泣くな。な。せっかく会えたのに。」
トリトンは徐々に落ち着きをとりもどし、一平の差し出したタオルで顔をぬぐった。
「結局お前はあのイルカからワケをきいたようじゃの。変な怪物は現れるし、お前はいっちまうし、
こんなことなら早くにちゃんと話しておけばよかった、とずいぶん後悔したもんじゃ。」
トリトンは暖かい一平の胸に頭を寄せた。ずっとこうしていたい、と言う思いがよぎった。
「なあ、お前。本当の親父さんやお袋さんには会えたのか?」
トリトンはかぶりを振った。すすり上げながら、とぎれとぎれに答える。
「ううん・・もう・・死んでた・・・殺されたって・・・。」
「そうか・・・・それで、お前をワシんとこに預けたんじゃな。きっとお前を守りたかったんじゃろう。
海は生きるか死ぬかの厳しいところじゃからのう。・・親父さん達を恨むでないぞ。
きっと精一杯のコトをしたんじゃから・・・。」
「じっちゃん・・・・」
「親ってのはそういうもんさね。」
トリトンは長旅の疲れもあり、眠くなってきた。たっぷりと飲んだ甘酒のぬくもりもまわったらしい。
アルコール度はほとんどないが、疲れた少年の身体には充分だ。

「眠いか?」
「・・うん・・」
「寝ていいぞ。ここはお前の家じゃ。好きなだけいていいぞ」
「うん・・・・・」あくびが出る。
「また・・・海に還るんじゃろ・・?」
「・・ん・・・・」
「それでもええ。またこい。いつでもこい。今度は仲間も連れてこい。」
「・・・」
「ここはお前の家じゃからの」

トリトンは眠りこけた。
一平は布団をそっとかぶせ、いつまでもトリトンの寝顔をみていた。

 満月は空に高くあがり、久々の2人の再会を見つめていた。

 

 

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