「帰還」

7.

一平の乗った船は海上を進むルカーとトリトンに近づいてきた。漁船のエンジンの音が止まった。
一平は甲板から手をさしのべた。
「トリトン、上がれ。」
「えっ・・・」
「いっぺん上がって来い。船に乗せてやると言ったろ?」
「でも・・・」
トリトンはルカーを見た。ルカーはすうっと船の方に進んだ。
「乗っていらっしゃい。乗りたいんでしょう?」
「・・・いいのか?」
「いっていらっしゃい。おじいさんが気がすまないようですから。」
トリトンはそれでも躊躇した。
かつて、あんなに人間と関わることを禁じたルカーがこんなことを言うなんて。
「あなたは・・・だまって村を出てきたようですね。そんなに私たちに気をつかわないで、
もっとお話していらっしゃい。」
トリトンはもう覚悟して船にあがることにした。
じっちゃんはどうしてわざわざ船まで出してオレを追いかけてきたんだろうか。
まさか、もう一度村で暮らせというのだろうか。
そうしたら、ルカーたちに何と言い訳しよう。
じっちゃんと住みたいのはやまやまだが、一度海で暮らし、すさまじい戦いを経験したトリトンは
もう何も知らない頃に戻って陸で暮らすわけにはいかない、と漠然と考えていた。
もう自分は海の人間なのだ。
それにもう一人じゃない。
ピピはどうなるんだ。またひとりぼっちじゃないか。
最初はずいぶんとぎくしゃくしたが、もう今は一緒に危険をくぐり抜けてきた仲間だ。
戦いが終わったら、さようなら、なんてあんまりだ。
このときトリトンは、ピピを失いたくない仲間だと自覚した。

そうは思っていても一平を前にして、心は揺れるトリトンだった。
「じっちゃん、いいよ」
トリトンは左舷から船にあがった。トリトンは差しのべた一平の手は借りず、
側面につるしたタイヤに足をひっかけ、器用にはいのぼる。
甲板に降り立ったトリトンから、しずくが落ちる。
一平は白い服とマントのトリトンを改めて見つめ直した。なるほど、と思った。
「こうして見るとよう似おちょる。お前はヤッパリ「海人」じゃのう。男前じゃ。」
一平はトリトンを見て納得するように何度もうなずく。
「やだな・・・じっちゃんたら・・・」
トリトンは一平の視線に照れた。

トリトンが甲板に上がってから、一平は波の下を覗いた。
「すまんの。しばらくトリトンを借りるからの。」
一平はルカーに向かって言葉をかけた。
それはごく自然に親しいものに話しかける言い方だった。
一平は不思議な白いイルカのルカーに「敬意」を払っているのだった。
ルカーは、一平の言葉に応えるようにジャンプした。

甲板の上は色々な漁具が散在していた。
中央に網を引っ張りあげるウインチがついている。これから沖の仕掛け網を引き上げに行くのだ。
前にトリトンも手伝ったことがあった。夏場はいいが、冬場は波と風と寒さとの戦いで、重労働だった。
水揚げが多いときはいいが、少ないときは本当につらい作業だった。
たまにサメ等に網を切られることもあり、一平は夜遅くまで網を修理していたこともあった。
船に乗ると一平との日々の暮らしを思いだし、トリトンはいっそう村への未練がつのってきた。
「一平、もう動かしていいか?」
船室から声がした。吾助が操舵室にいる。
「ええぞ。ゆっくり進んでくれ。」
「あいよ。」
再び、エンジンが鳴り、船はゆっくりと進みだした。
それに伴い、ルカーも船に着かず離れず、従ってきた。
水の中にもう一人、人らしい影があるのを吾助は気にしながら操舵していた。
 

一平は甲板に置いた箱を整理しながら言った。
「ミツコちゃんにきいたんじゃ。お前が「浜」にいたって。
まだ、そう沖に出ていないはずじゃ、と思って追いかけたんじゃ。」
「じっちゃん、ごめん・・・」
「ワシが午後まで待てと言ったのに・・・・。 帰ったら手紙だけ残していないから、そりゃあ、がっかりしたぞ。
そんなに急ぐ用があったのか。」
トリトンはうなだれた。
本当はもっといたかったのだ。できればずっと。
でも、あれ以上いると本当に還れなくなってしまう。
そんな気がして、とにかく出てきたのだ。
でもトリトンは自分の気持ちを上手く言えなかった。
実際には、こういうのがやっとだった。
「オレ・・・あんまりいちゃ悪いと思って・・・。その・・じっちゃん、忙しそうだし。」
「なんと水くさくなったもんじゃのう。そんなに海はいごこちいいか。」
「ううん・・・あっ・・・いや、そうでもないけど・・・」
一瞬ピピやルカーのことを考え、曖昧な答えになるトリトンだった。

 

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