「帰還」

8.

 

「この手紙じゃがな」
一平は手紙を見せながら、トリトンに言った。
「トリトン、甘酒ぐらいの字が書けんのか。「酒」の字の線が一本足りんぞ。
それに、「昨日」は「昨」の左が目になっとったぞ」
「返してくれよ!」トリトンは顔から火が噴きそうだった。
一平から手紙を取り上げようとする。一平はそれを高くさしあげ、トリトンをからかうように笑った。
「じっちゃん!手紙の間違いをわざわざ船に乗って言いにきたのッ?」
とうとうトリトンは根をあげた。
「実はコレを渡そうと思っての」
一平は懐から小さな鈴のようなものを、持ち出した。虹色に輝く玉に細長く編んだ紐がついている。
「山の上の鎮守様のお守りじゃ。去年の祭りの時に手に入れたんじゃ。」
コレを身につけとくと災難を逃れるっちゅうからの」
一平は無理矢理トリトンに手渡した。
トリトンは唖然とした。
こんなもののために自分を追いかけてきたのか。
気持ちは嬉しいがなんだかとても恥ずかしくなった。
「じっちゃん・・・いいよ・・・」
トリトンは返そうとした。
「持っておけ。きっと役に立つ」
「でも・・・」
「でもなんじゃ」
「なんだか・・・・恥ずかしくて・・・」
「それでもかまわん。持っとれ」
トリトンは仕方なく、受け取った。入れるところがないので、ベルトに結びつける。
トリトンが動くとところころとかわいた音がした。
一平は手すりにもたれた。
「網のあるところまでつきあってくれんか。いくらなんでもお前の住むところまで追いかけてはいかんからの」
「・・・いいよ・・」
トリトンは付いてくるルカーを気にしながら言った。


船はゆっくりと東に進む。陽もゆっくりと高くなり、少し暑いぐらいになってきた。
「アレを見ろ」
一平は岬の方を指さし、言った。
波にのって上下する船から見る岬は崩れてはいてもなお威厳を保っていた。
遠ざかる岬を見ながら、一平はつぶやいた。
「あの岬の隣の浜を埋め立てるそうじゃ。そして岬は削って、上に道路を通すらしい。」
トリトンは一平を見た。一平の目は岬よりももっと遠くを見ているようだった。
「わしらは埋め立ては仕方ないが、せめて岬を崩すのはやめてくれ、と頼みに言った。
じゃが、お役人の頭は固くての、もう予算がついちまったとかで一歩もゆずらん。
それにあの岬は風化も激しくての。いつ崩れるかわからん危ない岬は先に崩しちまえ、という考えらしい。
何とも罰当たりなもんじゃ。あの岬の下の洞窟は、昔は海神さまのいらっしゃるところだったんじゃそうな。」
一平は溜息をついた。
「じゃが役所のヤツの言うことにも一理はある。
確かにこの村は不便なんじゃ。鉄道からもはずれとる。バスも少ない。広い道路も遠い。
せっかく水揚げが多くても運ぶのにヒマがかかって商売にならん。これではこの村は寂れる一方じゃ。
だからこそ「開発」するんじゃ、とな。それに賛成する若い衆も多い。時代の流れじゃろうな。
じゃがな、ワシはなんとしてもあの岬だけは残したいんじゃ。」
一平はトリトンの方を向いた。
「なぜなら・・・・、お前がいたところじゃからの。」
トリトンは改めて一平を見た。一平の目はこれ以上ないほど優しかった。
トリトンは一平を見て微笑み、また目を伏せた。また涙がこみ上げてきたからだ。
あの洞窟でみたろうそくや御神酒は一平が供えたものだろう。トリトンはそう確信した。
船に乗るとき、一平はいつも船霊(ふなだま)様に安全を祈願していたからだ。
きっと一平は岬の洞窟から自分の無事を祈っていたに違いない。
トリトンは一平の思いの深さにまた涙がこみあげ、何も言えなくなってしまった。

「・・・・役所にはもう一度交渉しに行って来るつもりじゃ。せめて補強工事ぐらいにならんかの、とな。
村のシンボルが消えちまうのはあんまりじゃからの。
・・・それにお前が帰って来る時に、どこを目印にしたらいいのかわからんじゃないか。」
一平はにこやかな顔をした。
村を守ろうとする一平の心意気にトリトンは頼もしさをおぼえた。
じっちゃんと暮らして良かった、と本当に思った。


船にピッタリ付いてくる白いイルカの横に見え隠れする人がいる。
一平は少し前から気付いていたが、トリトンには聞かなかった。
それは女の子のようだった。茶色い髪に真珠の髪飾りをつけたその子は、
船からのぞく一平の顔を見ると、さっと水中にもぐった。
赤い尾がちらりとのぞく。
「わあ!人魚じゃ!一平見たか!おいっ!」
先に吾助が大声をあげる。一平も驚いたが落ち着いた声でいった。
「騒ぐな、吾助。トリトンの仲間じゃぞ」
「はあ・・・あれがそうかい・・・・。なんともまあ・・・おったまげた・・・」
「吾助、このことは他言無用じゃぞ。わかっとるな。」
「おう・・・おう、当たり前じゃ。誰にも言ったりせん。」
吾助は胸をはった。
「大丈夫かの・・・」
一平はトリトンの方をみて笑った。
「かわいい、仲間じゃの。トリトン。もう淋しくないな」
トリトンは恥ずかしそうに笑った。

「そろそろ仕掛け網のあるところじゃ。ワシは東にいく。お前は・・・?」
「・・・オレたち、南に行くよ。イルカたちが待ってるんだ」
「そうか、お前はイルカの大将じゃもんな」
「そんなんじゃないよ、じっちゃん」
トリトンは照れながら答えた。
「今度こそ、お別れじゃ。引き留めてすまなんだの。」
一平はトリトンを包み込むように抱きしめた。
トリトンも一平に抱きつき、しばらく目を伏せた。
あたたかい腕にトリトンはまたこみ上げてきそうになったが、ピピ達のことを思い、
かろうじて泣くのだけは踏みとどまった。
「困ったときはいつでも来い。ここはお前の「ふるさと」じゃ。」
「じっちゃん・・・ありがとう・・・・」
トリトンはそれだけ言うのが精一杯だった。
トリトンはあがってきた左舷のへりに器用に立ち、えいっと海に飛び込んだ。
水から顔を出したトリトンに一平は声をかけた。
「元気でな。達者でくらせよ」
「ありがとう、じっちゃん・・・。」
船はゆっくりと東に進んだ。
「じっちゃん・・・さよなら!
あ・・ありがとうッ!
トリトンは声を張り上げた。

一平は微笑んで手を振った。
トリトンも手を振って一平を見送った。
一平は左舷から見送り、そして船尾にまわり、いつまでもトリトンをみていた。
見送るトリトンに白いイルカがすっと近づいた。
そして、明るい茶色の髪の人魚の少女がトリトンに近づき、何かつぶやいた。
その少女に向けるトリトンの表情が優しいのを一平はほほえましく思った。
程なく少女はトリトンと一緒に手を振った。
「あいつ・・・・、いい娘が友達じゃの・・・」
「あの子はトリトンの嫁さんになるんじゃろかのお・・・」
吾助はつぶやいた。
「そうかもな・・・」
一平は微笑みながら、答えた。


その日、一平はいつになく多くの収穫を得た。
一平はつぶやいた。
「トリトンのヤツ、気をきかせおって・・・。」

海は穏やかで、空は白い雲が点在していた。
天候の崩れはまだまだ当分みられそうもない、穏やかな初夏の午後だった。


 
                                             −−「帰還」・完−−

*おまけ*

 

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