「帰還」

3. 

「・・・トン・・・・」
「・・・トリトン・・・・」
遠くから声がした。トリトンは懐かしい声に生返事をした。ふふふ、とひとり微笑む。
「・・・トリトン・・!」
揺さぶられ、トリトンは目をあけた。
「・・・全く!寝起きの悪いところは変わらんのう。よく寝首をかかれんかったな。さっさと服をぬがんか。」
トリトンは事態が飲み込めず、ぼんやりしてた。髪はくしゃくしゃで、頬に畳の痕がついている。
ええと、昨日はどこで寝たのだっけ。イルカ島はまだ住めないから・・・あれ・・・?
「こら、早くせんか!」
声と同時に、身体に手が伸び、服を引っ張られた。トリトンはやっと思い出した。
「じっちゃん・・・!・・そうか・・・あっ、おはよう・・・・。」
「何を寝とぼけとる!その汚れた服をさっさと脱げ」
「何・・?」
一平は返事をきかず、トリトンの服を裾からめくりあげ、頭からさっと引き抜いた。
はずれたベルトが畳にころがる。
「じっちゃん・・・!寒いよ・・・!」
下着一枚になったトリトンは布団にくるまる。顔が赤らんでる。
一平はトリトンのそばに服を投げた。古い浴衣だ。
「乾くまで、それを着ておれ。こんな汚い服、着てるのは許さん!」
一平は外に出た。他にも洗い物を抱えていた。ほどなく洗濯機の音が聞こえた。
古びた家に裸で取り残されたトリトンは呆然としていた。
「じっちゃん・・強引だよ・・・・。」
文句をいいながら、トリトンは仕方なく浴衣をひっかけた。浴衣は裾が長く踏みそうだったので、
すいぶんとたくしあげた。適当に帯を巻く。
トリトンは台所に入った。
明るいところで見ると、台所は前よりもいっそう狭くなったような気がする。
顔を洗う水をくもうとして、はたと気付いた。
以前あった、手汲みのポンプがなく、電動の物に変わっていた。
この家には水道がなく、代わりに屋内の井戸から水をくみ上げるようになっていた。
一平と暮らしていたとき、水汲みは自分の仕事だった。
毎朝、がちゃがちゃと 押していたなつかしいポンプはもうない。
そんなところに、自分がいなくなった「時」を感じてトリトンは溜息をついた。

裏口から外をのぞくと、一平はもう洗濯物を干していた。
トリトンが着ていたチュニックやマントも風にはためいている。
一平はトリトンに気づき、声をかける。
「おう、やっと起きたか。今日はちょっと用があるので、急ぐのじゃ。すまんな。」
だぶだぶの浴衣の着付けが適当で胸がみえているのに一平は苦笑した。
「じっちゃん・・・、ごめん・・・。オレ、朝までに行くつもりだったんだ・・」
「なんじゃ、慌ただしいやつじゃの。そんなにあの白いイルカは門限にうるさいのか」
「そうじゃないけど・・・、ピピ・・・その、仲間が心配で・・・・」
一平はトリトンに近づき、顔をのぞき込んだ。あごをついともつ。
「おまえ、『男』の顔になったの。」
「え・・・」
意味がよくわからず、トリトンは一平を見上げた。
「守るもの、心配するものがおるということは、大人になる、ちゅうことだ。」
「お前はもう一人前じゃな。」
一平はトリトンの合わせをなおしながら、言った。
「この服が乾くまで行くのは待て。後で船で沖に送ってやる。な。」
「船に乗っていいの?」
トリトンの顔が輝いた。
「ああ、いいとも。午後になるがいいか。」
「うん!・・・あ、ありがとう・・・ごめん・・・じっちゃん・・・」
「ん?何を謝る?」
「だって・・・もう一緒には暮らせないのに・・・その・・・なのに」
「それは言わん約束じゃ。お前が顔をみせてくれただけでワシは嬉しいんじゃ。ワシも長生きせにゃあ、な。」
トリトンはまた目頭が熱くなってきた。でも今度はうれし泣きだった。
「一平、用意は出来たかの・・・あれっ・・・・」
そこに吾助が、物干場に入ってきた。トリトンの姿に驚く。
「あれ・・・まあ、まあ・・・・なんてこったい!本物かい!?」
「吾助のおじちゃん・・・!」
懐かしい顔にトリトンの顔がほころんだ。

「返事がないと思ったら、こういうことかい、一平。・・・・いつ戻った?ん?」
吾助はトリトンの手を握り、尋ねる。その目は相変わらず、穏やかで優しい。
吾助は一平の古くからの友人だ。
トリトンを育てることにより、村で孤立しがちな一平を支え、ずっと相談相手になってきた。
またトリトンも吾助の家族にはずいぶんと親切にしてもらったものだった。
トリトンにとっては一平の次に信頼のおける村の大人だった。
「夕べ・・・遅くに・・・」
うつむきながら答えるトリトンの頭を吾助はなでる。
まるで小さい幼児をあやすように、吾助はトリトンを慈しんだ。
「そうか、そうか。よかったなあ、一平。またトリトンと暮らせるんじゃ。ほんによかった」
吾助は勝手に一緒に住むものと思いこんでいる。
「なあ、トリトン、お前がいなくなってから、一平は大変じゃったんだ。酒ばかり呑んでな。
とうとう医者に止められちまったほどなんだ」
トリトンの目が丸くなる。
「吾助!余計なことは言わんでいい!!」
一平の檄が飛んだ。
「それにトリトンはワシとはもう暮らさん。また海に戻るんじゃ」
「ええ??」
吾助は事態がよく呑み込めないらしい。トリトンと一平を交互に見つめる。
「それより吾助。もうみんな待ってる頃じゃろ。そろそろ行かんと・・・」
「おお、そうじゃ。今日は皆で役所に行くんじゃったの。」
「役所って???」
今度はトリトンが事態を呑み込めない。
「後でゆっくり説明してやる。とにかく、村を守るために役所にお願いに行くんじゃ。
あの岬の下の砂浜を埋め立てるっちゅうから、反対しに行くんじゃ」
「埋め立て・・・・?」
「すまん、時間がない。とにかく行って来る。待っておれよ。」
一平は吾助と共に、あわただしく表に向かう。と、一平がトリトンに振り返った。
「あ、そうじゃ。風呂を沸かしといた。自由に使っていいぞ。朝飯もあるから食っておれ。」
一平はそれだけ言うと、振り返らず、吾助となにやら相談しながら、足早に歩いていった。
トリトンはまた、家に一人残された。
よくわからないが、村も変化しているらしい。
埋め立てとか工事とか、そういう事態が村の重大事になってきているのだ。
素朴に漁をしていた時代は過ぎつつある、とトリトンは感じた。

トリトンは風呂場を覗いてみた。
ふたを取ってみるとたっぷりの湯がはってある。白い湯気が部屋中に広がる。
一平が朝早くから用意してくれたのかと思うと感無量だった。
湯に手を入れてみる。少し熱めの感触が懐かしかった。
トリトンは誘惑に勝てず、浴衣と下着を脱ぎ捨て、頭から湯をかぶった。
「あちっ・・」
トリトンは熱い湯が嫌いだった。いつもぬるめてしまう、と一平に叱られていた。
でも今日はその熱さが嬉しかった。トリトンは流れてくる涙を熱い湯で隠すように何度も湯をかぶった。

 

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