◆第15話の感想◆

「その叫びは水と霧の数億年を越えてやってきた。ぼくの頭と体がふるえだしたほど、孤独で、悩ましげな叫びである。怪物は燈台にむかって叫んだ。霧笛が鳴った。怪物がふたたび吠えた。霧笛が鳴った。怪物は口をあけて、大きな歯をあらわにした。そこから出てくる音は、霧笛の音そのものだった。孤独な、深い、遠い、音。孤立の音、視界をとざされた海の音、冷たい夜の音、別離の音。」
 
   
                      (「霧笛」より引用。早川文庫「太陽の黄金の林檎」収録。小笠原豊樹訳)

 

 言わずとしれたレイ・ブラッドベリの名作、「霧笛」の一節です。
「海のトリトン」第15話には孤独で仲間を求める恐竜が登場します。
タイトルも「霧に泣く恐竜」と淋しげで、悲しいイメージです。
でも明らかに「霧笛」の引用でありながら、独特の世界をつくりだし、「海のトリトン」の世界を代表する話に消化されています。
またこの話は典型的な「外伝」パターンの話で、「海のトリトン」の世界そのものが外伝的エピソードで成り立っていることを良く表していると思います。

これは悲しい恐竜さんのお話です。
でも予告ではそんな印象はありませんでした。楽観主義者の私は、この恐竜さんがあんな悲惨な死に方をするとは思わなかったのです。

思えば「トリトン」は悲しい話ばかりです。
第1話ではじっちゃんとの別れ、2話ではすでに死んでしまった両親の声、3話でメドンとの別れ。
4話、5話で仲間のピピと出会いますが、お互い気に入らず、またプロテウスも死んでいく。
6話、7話ではもう北の海に戻れないピピの哀しみ、8話ではせっかく出会ったプッチャーとの別れ。9話の恐ろしい吸血鬼は実は悲しい老婆、10話でピピとの軋轢、11話ではドリテアとの戦いと秘密の獲得とその死による別れ。そして12話はイルカ島を失い、13話でバキューラとの戦いにより、剣の力が落ちていることを知る。14話では海に出てきたことを後悔すらするトリトンの悲しみ・・・・

こんだけマイナス要素のそろっているアニメも珍しいぐらい。
ラストはいつも「悲しみ」の感情が残ってしまいます。
そしてこの15話でも恐竜の死という深い悲しみが待っていますが、通り一遍の描き方ではありません。

 

 冒頭は嵐に翻弄され、漂流するトリトンとピピの絵から始まります。
でも二人はケンカをしていた頃の面影は微塵もなく、しっかり手を取り合って共に生き抜こうという姿勢が見られます。
「二人は身も心もしっかり結ばれていたのだった」のナレーションがちょっと恥ずかしかった。
でも仲良くなるとちょいつまんないな、と思うのっていけないかな。

「もうすぐさ。もうすぐカモメが俺達の前に島影をはこんでくれるよ」
いままでピピの文句に憎まれ口を返すだけだったトリトンが、ピピをいたわり、やさしく希望を持たせる言葉をかけます。トリトンは仲間を守れる大人に成長しつつあります。

法螺貝の音にひかれ、現れる恐竜。驚くフィン。
そうそう、この回はフィンと再会する話でもありました。
トリトン、乗り物ができてよかったね(^^)

恐竜の顔をなでているトリトンはなんだかおかしかった。
恐竜もまるで子犬のように甘えていた。 シッポをふるシーンがなんともいい。
でも船の汽笛が聞こえるとその方に行ってしまい、仲間の声と勘違いして船を壊してしまう・・。
「霧笛」が「汽笛」になって「燈台」が「船」になってますが、ブラッドベリの世界を上手く引用しています。
ヤドカリのじいさんに話を聞くトリトン。ずっと眠っていたのにイルカ島の爆発で目を覚ました。
でももう仲間は死んでしまっていない。それで悲しく仲間を探している、と。

 余談ですが、犬が救急車のサイレンの音を仲間の遠吠えと勘違いして吠えるという現象があります。サイレンの音と遠吠えの周波数が近いためだそうです。
汽笛と恐竜の声の周波数も似ていたのでしょうか(?)

あの恐竜はトリトンとピピのメタファーでしょう。
仲間を求めて捜し求める。でも誰もいない。二人きり。
トリトンとピピの運命、最終回では両親も仲間も、また敵であるポセイドンもみんないなくなってしまいます。絶対孤独を味わうトリトンの運命を暗示します。
友だちとしてのイルカ達はいても、血縁の仲間「トリトン族」はもういない。
トリトンたち以外のトリトン族の存在の可能性がうち消された印象があります。

そしてトリトンたちの持っている時間の流れと恐竜の仲間を求める長い年月が重なったとき、悲劇が起こります。出逢いと別れの典型的な話です。
長い時間が絡んでるだけにいっそう切ないものを感じさせます。

トリトンは恐竜を呼ぶために法螺貝を吹きます。
でもそれが結果として悲劇をまねきます。
もう一度会いたいという願いも空しく、恐竜はポリペイモスに殺されてしまう。
恐竜の出す悲痛な叫び声が胸を締め付けます。

このシーンは涙、涙なしでは見られません。私もつらかった。
長女は涙ぐみ、次女は「ポリペイモス腹立つ!!」と唸ってました。
泣く代わりに怒りをTV画面にぶつけていました。
このシーンに心動かない人はよっぽどの冷血漢か、世をすねた人か、苦労しすぎて感情が麻痺してしまった人でしょう。
それほどにこの場面の悲劇性は高い。わかりやすさも一品です。

ここにトリトン登場!「何するんだ!」ポリペイモスをやっつけ、恐竜は無事に助け出されました。
・・・なんて「たのしい幼稚園」っぽい話にはなりません。

 あくまでも淡々と死に行く恐竜と捨てぜりふを残して去っていくポリペイモスを描き、
そして、マーカスに殺されるポリペイモスを淡々と描写していきます。

でもポリペイモスが死んでいったのに、なぜか、カタルシスにならず、澱のように疑念がのこります。そう、トリトン達と恐竜がであえなかった。
そして、殺された、ということも知らずに去っていく。
第8話のプッチャーとの別れにはプッチャー達が助かっているという「救い」がありましたが、それすらない。大変「欲求不満」が残ります。

そして、ラストはトリトン達のセリフがないのがよかった。
あえて考えてみればこのような感じかな。

「あの恐竜来なかったわね」
「・・・うん」
「どうしてなのかしら。私たちのことキライになっちゃったのかしら。」
「・・そんなことないさ。きっと眠ってるんだよ・・・。そうさ・・・、眠っちゃったんだよ。また。」
「・・・そう。そうね。きっと。」

でもなくてよかった。ただBGMが流れるのみ。
この方がいい演出だな、といつも感心します。
上手に筆を止めた演出が憎いです。

恐竜のデザインはブラキオザウルスでしょうか。
4話のデモラーも古生代の恐竜をデザインしたもので、恐竜好きの方にはこたえられない引用でしょう。「海のトリトン」にマニアックなファンが多いのもうなずけます。

 しかし、直接手を下していないのにポリペイモスが死んでいくことの意味はどう考えればよいのでしょう。
14話で、戦いのシーンが少しあったので、きっとトリトンがポリペイモスを直接やっつけるのだと私は思っていました。その方がトリトンの強さを強調できるであるだろうに。
 でも私はこう考えてみました。ある仮説として聞いてください。

 ポリペイモスの死はトリトンが直接手を下さずに自滅していくことから、トリトンの力の優位が表されます。つまり、すでにポリペイモスはトリトンの相手ではないのです。
 トリトンの敵は遙か大西洋にいるポセイドンであり、それは一種の「父」と見なすこともできます。
少年が大人になる過程で、「父なるもの」に当たるものを倒していくのはストーリーの必然で、その意味でポリペイモスは父の要素を持たない単なる「戦士」にすぎないことがうかがえます。

 ポリペイモスは残虐で攻撃的ですが、一種の「男性性」の象徴と見ることができます。
そのポリペイモスを倒すことはその「男性性」をトリトンが獲得することになり、一種の成長です。

 またこの時点のトリトンには「癒し手(ヒーラー)」としての要素が加わっていると思うのです。
 イルカ島を破壊され、よりどころを失い、傷ついた戦士である彼は、同じ傷を持った者を慰める要素も獲得したのです。恐竜が法螺貝の音に引かれるのは単に仲間の声に似ているとかいう事ではなく、この時点のトリトンの持つ「癒し手」の要素が恐竜を引きつけるのです。
イルカ島を破壊されたあとのトリトンだからこそ、の要素です。
 傷ついたトリトンの吹く法螺貝の音は一種の「癒しの音楽」となります。
そして法螺貝を吹き鳴らすトリトン少年の映像はギリシャ神話の海神トリトンともかさなり、視聴者のイメージに広がりを持たせます。

 癒す領域はどちらかというと女性原理の一種なのですが、トリトンには女性性の要素の獲得も見られます。
 その昔、王位を継ぐ者はいったん女装してから男子の衣装に着替え、そして王位に付くというような儀式が見られたらしいのですが(ヤマトタケルなどがこれにあたります。「イリアス」で有名な英雄アキレウスもいったん女装しています)トリトンの場合、ピピを仲間として認めて精神的につながったことで、一種の女性原理の獲得とみなす、というところでしょうか。

 また11話でドリテアを倒しています。ドリテアは英雄伝説につきものの地母神とも考えられます。母性原理をのりこえ、成長していく過程として、母なるものを倒すパターンが必要なのです。
そしてそのこととピピとの仲直りが表裏一体なのは偶然ではないでしょう。
母性原理を倒すことにより、未来の母性、つまりピピという「女性原理」を獲得したのです。
 このように「少年」だからというだけでなく、トリトンには両性具有的なものを獲得する神話的要素が見られます。

 ポリペイモスを倒したことにより、トリトンには「戦士」としての要素が強調され、後半は厳しい戦いのシーンが多くなります。
 後半は低視聴率の打開策として大幅な脚本変更と改編がなされ、ストーリーもより冒険活劇的な要素が多く、トリトンもパターン通りの活躍の仕方をしていますが、異様に強いトリトンの強調がこのポリペイモスの死と無関係とはいえないでしょう。

 「海のトリトン」は色々と作画が荒いだの、視聴率がとれなかっただの、対象年齢以外のファンが変な騒ぎ方してるとか、業界ではマイナス評価が多いらしいのですが、そんな評価を吹き飛ばすような「文学性」の高い話がこの「霧に泣く恐竜」だと思います。
 もっと高く評価されてもいいと思います。

※「霧笛」は映画化されたのでしょうか。
 詳しい情報をおもちのかた、教えてください。
 ずいぶん前、「霧笛」を舞台用に脚本化した、と言うものを読んだのですが、実際に上演されたのか、
 それとも、そういう想定で書かれただけのものなのか、記録が見つからず、詳細が不明です。
 (たしかブラッドベリ自身によるものです)
 また萩尾望都さんがマンガ化されたそうですが、うっかり読んでません。(紹介記事をみただけ)

※「遠い海から来たCoo」(故・景山民夫氏)という小説はこの「霧に泣く恐竜」のハッピーエンド版と思うのは
  私だけでしょうか。

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