トリトンへ片想い
その3

トリトンの似顔絵描きの功罪・・・
放映半年の間に私は変わっていった・・・

トリトンへ片想いその1へ/その2へ/その4へ/その5へ番外編


■「GOGOトリトン」のレコード■

 1972年7月初旬頃(だったかな??6月か??)、コロムビアレコードより発売の「GOGOトリトン」のEP版を購入しました。

 実は私は、クラウンの「海のトリトン」を買ったとき、「GOGOトリトン」の歌が何故入っていないのだろうと不思議でした。
 クラウンレコードのB面の「海のファンタジー」もとてもすてきな歌でしたが、やっぱりインパクトの強い「GOGOトリトン」の方が好きだったのです。ずっと探していて、レコード店に行くたびに探しました。(当時バスで20分ぐらい)

 見つけたときの喜びはクラウンのものより大きかったです。
何よりもジャケットの絵がかっこよくて、かっこよくて、何度も何度もハトロン紙をあてて、トレスしました。(当時トレーシングペーパーはもってなくて、半透明の紙と言えばハトロン紙しか知らなかった)もう今ではぼろぼろですが、これが私のトリトンの似顔絵書きの勲章のようなものです。
特に裏の少し大人っぽい、オリハルコンの剣をかまえたトリトンが最高にステキでした。

 その日からトレスしまくり36色の色鉛筆(小5の時お小遣いで買った)でぬって、下じきに挟んだりして、学校に持っていきました。あけてもくれてもそのトリトンを眺めている状態でしたので、当然成績は急転直下。担任の先生にも「気が散っている」というお叱りをよくうけました。(通知票に書かれた)
 当時は今とちがって土曜もしっかり授業がありましたから、教室の時計を見ては「あと何時間でトリトンにあえる」という計算ばかりしていました。(時計の計算は速くなったです^^;;;)
 先生スミマセン。娘には授業中、ちゃんと先生のお話を聞きなさいと言ってます・・・

 漫画も読むだけでなく、描くようになっていました。ペンとインクを初めて買ったのもこの頃。インクは薄くて乾きが悪いのでのち墨汁で描く様になりました。当時は模造紙を切って描いていました。生意気にポスターカラーのホワイトで白抜きをして遊んでいました。画材にも興味がでて、あれこれと店に行っては眺める日々でした。(お小遣いが少なくて買えなかった;;;)
 当時学研の科学・学習の雑誌のCMで掲載されていたプペ・カラー・キットが欲しかったです。(どんなものか知りたいなあ)

 算数や国語の成績は下がってしまいましたが、家庭科と図工は良くなりました。
図工は専任講師がおり、毎時間クロッキーの時間があったのですが、早く描けるようになりました。家庭科は「5」をはじめてもらいました。
課題に出た、テーブルクロスのデザインに10話に出てきたピピのお友達のお魚さんを並べたのです。TVからのまねっこだからダメかなと思ってましたが、以外と「配置が独創的」とかで良い成績をもらいました。(よく考えれば先生は「トリトン」なんて見てなかったのよね、きっと)
なんのかんの言ってもピピにもしっかり影響を受けている私でした。

(このころたしか、朝日ソノラマからのソノシート「恐怖のリューダー」を買っています。手塚調の絵に疑問を持ちながらもトリトンの声が聞けるので喜んでいました)


■初めての外伝?・・・妄想の始まり■

 初めての外伝らしきモノを描いたのもこのころです。
私は「トリトンのおはなし」の中の感想でも書いたように、9話や10話がすごく印象深かったので、外伝というか、TV放映されなかった部分の話というのを考えるようになっていました。
 私にはトリトンやピピが単にTVの漫画の登場人物ではなくて、実在する人間の様な気がしていて、どこかで暮らしているんじゃないかという印象があったのです。

 当時いただいたりして余っていた学習ノートの余白に適当にトリトンやピピを並べて描いてました。
  その中でおぼえているのが、第10話の冒頭でトリトンが夢を見るシーンをぱくったもので、トリトンがあるとき、育った猪首岬のある村の夢を見て、胸騒ぎがして、こっそり村に帰ってみると、そこでは一平さんのお葬式が行われていて、村人がトリトンに「なんでもっと早くかえって来なかったんだ」と非難する内容でした。
 そしてその葬儀にはあのにっくきオトヨ婆さんも参列していたのでした。ちゃんと泣いてくれていました。(オトヨさんも記憶がうすれていたのだが、しわくちゃのおばあさんを描いたような気がする)詳しいことは覚えていませんが、なんで、一平さんの葬式なのか、不思議です。
このころの私には、一平さんはもうトリトンには必要なくてこの世では会えない人、という印象があったのかもしれません。それにしても、もう少しましな話を考えつかないものでしょうか。

 やはり、第10話の冒頭の吸血鬼になった一平爺さんをみて、久々にそういえば、トリトンって一平さんと暮らしていたっけ、と思い出したからかもしれません。(よく考えれば第1話を見てから三ヶ月近くたっています)
 話がすすむにつれ、最初の印象を忘れがちで、記憶の歪曲(??)みたいのなのが起こって、こんなお話を考えたのかもしれません。
 よく回想的なお話は手抜きとかいいますが、視聴してる小学生にとっては「新たなる刺激」でした。

 その話をきっかけにして、イルカ島がなくなってから漂流してる間の話とか、ピピがトリトンより先に大人になっちゃった話(足ができちゃった→トリトンより泳ぐのが速かったりする)とか、変なことばっかり思いついてはこっそり描く日々でした。(所詮、小学生ですからややこしいことは考えられませんでした。細かいことは忘れちゃいました)
 (この時よりも後の第一回の再放送の時によく妄想話を描きました)


欲しかったTV版の漫画本

 夏休みに入り、私の関心ごとはトリトンと漫画、アニメに関することになりました。
当時週一度ピアノのレッスンのためバスで通っていたのですが、帰りに近くの書店で漫画を立ち読みするのが楽しみでした。お小遣いがあれば時々購入していました。

 当時私が探していたのは、TV版の「トリトン」の原作というか、マニュアルと
いうか、小説でも何でも、TVのストーリーを書き記したモノでした。でもなぜかなくて、あるのは手塚調の絵のものばかり・・・。
 それに新聞連載されていた漫画をまとめたモノが放映に合わせて出そうなものですが、それもみつからず、探すのがヘタな私は、「きっと人気があるんで売り切れちゃったんだ!」と一人で悲観して落ち込んでいました。
(まだ店員さんに聞くとか問い合わせるとかの頭のない時代です。
学生ですよ;;;→あとで年末あたりに出ました)

 でもその代わりと言っちゃなんですが、当時は原作者の手塚治虫さんの
「火の鳥」のCOM版が出たりした時期で、大いに、刺激をうけました。
そして、白土三平さんの「カムイ外伝」もほぼリアルタイムでまとめたものが
雑誌ででて、記憶するほど読みました。あのスピーディなコマはこびや
カムイのクールな横顔が大好きです。(^^)
 私はもうピアノのレッスンどころでなく、絵ばかり描いていて、練習しないと先生に叱られてばかりいました。
(この時の収穫は待合室で、和田慎二の「薔薇屋敷の謎」と言う漫画をみつけたこと。
緑色の髪の少年がでてきた)

 こんなにTV版の絵のモノを望んでいたハズなのにせっかく別の書店で見つけた「歌の絵本」(栄光社)を買いそびれてしまいます。なぜかハンカチなどのトリトングッズは買えませんでした。色々出てたのに・・・。
 もしかしたら、こんな幼いモノで喜ぶ年齢じゃないのよ、とお姉さんぶりたかったからかもしれません。
しょうもない羞恥心のためでしょうか。今となっては笑えますが当時は真剣だったのです。


■夏休み・・・親戚宅でも強引にトリトン視聴■

 夏休み中の7月末、大阪の親類宅に遊びに行きました。
そのときにも真っ先に「今日の7時にTV見られる?」と確認しました。ダメと言えば帰るつもりだったのです。(思えば私の事をかわいがってくれていた親戚だったのに、来たトタンに帰るつもりだったなんて・・・不幸モノです)
 
 お店を経営している親類だったので、店と自宅の移動の時間と「トリトン」の時間が重なったら大変と「先制」したのです。(こんなことだけ頭がまわる;;;)どうしても「トリトン」がみたいと主張した結果、お店の白黒TVで「海のトリトン」を見る羽目になりました。
 「消えたトリトンの遺跡」でしたが、白黒だったので、細部がよくわからず、かえって想像がふくらみました。あの遺跡、もったいないなあ、とばかり思っていました。
 
 その前後、たしか大阪の阪神デパートで「6チャンネルっ子全員集合」という催し物があって、「海のトリトン」がメインだという新聞記事をみていたので、「これに連れて行って」とせがんだのですが、そこはお店の人、「月末はダメ」と一蹴されました。そういえば私がここにきたのも、母がお店を経営していて、「月末は遊べないから、大阪の親戚宅に行っておいで」と送り出したのでした。
 その親類とは2年ほど前、万国博覧会(いわゆるEXPO’70です)に連れて行ってもらってたので「万博記念公園ならつれていってあげる」と言ってくれましたが、私はことわりました。もう「公園」で遊ぶ年(気持ち)ではなかったのに、親戚の人は私の幼いころのイメージでみているんだな、と思いました。

 あとで聞くとその「6チャンネルっ子全員集合」という催し物がきっかけで「トリトン同好会」が結成され、セルやグッズが売られ、塩屋翼君や北浜晴子さんがいらしていたと聞いて、ますます悔しかったです。月末忙しいところに嫁には行かないでおこうとこの時決めました。

 また夏休みの後半にも近くのいとこの家に泊まりがけでいき、そのときにも土曜日だったので、何の番組を見てるか確認し、幸い「トリトン」をみてるということだったので、泊めてもらうことにしました。(「ライオン丸」とか言ったら7時に間に合うように即帰るつもりでした)

 もうこのころの私は「海のトリトン」が確実に見られるかどうかが最大の関心事だったのです。
この時、6年生だったので、修学旅行と「トリトン」の放映日が重なったら旅行を休もうとさえ思っていました。実際には小学生だったので、困難だったと思いますが、とにかく「見のがしてはいけない」という義務感というか、逼迫した感じがありました。(ビデオがないってある意味ではいいかもしれない・・・)
 その時みたのが「太平洋の魔海」。
どうしても御飯を食べながら「トリトン」をみるのがいやだったので、遅い夕飯にいらいらしながら待ち、出してもらうと、ものもいわずに一気に食べ、数分で「ごちそうさま、じゃ、先にごめん」、とまだ口をもぐもぐさせているいとこ達を尻目に、一人で画面を食い入る様に見つめていたのでした。
 それまでの私は食事をとるのが非常に遅く、からかわれていたのですが、このときは親戚の人も目を向いていました。(おばちゃん、ゴメン。御飯はおいしかったよん)

 この回はヘプタポーダがなくなってしまう回ですが、すごく印象深くて、ヘプタの残酷な死のシーンに、食事しながらのいとこたちも食事の手をとめてビックリしたようにみていました。(あれ、ちょっとひどいよー。)
 でも私は墓を作るトリトンにもっとショックをうけていました。
いいんか、そんなことして!と何故か不安に思ったものです。とにかく印象深い「太平洋の魔海」でした。
 その時にいとこ達から聞いた情報が、「バロム1」にトリトンの声の男の子が出ているという話でした。(実はその当時見ていなかった)

 

   

   ★文中のクラウンレコードのジャケットやコロムビアレコードの
    ジャケットなどはabechiさんのホームページ「TORITON DREAM」の
    グッズのコーナーで見ることが出来ます。リンクのページからGO!

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