●原作「トリトン」の世界●

その5●富野氏の原作の見解
 
 TVのトリトンを演出したのは富野由悠季さんです。
(当時は富野喜幸という名前でクレジットされていました)

そして、TV版の最終話の構想は富野さんによるものです。
彼は虫プロ出身で、いくつか手塚作品の演出も担当したことのある人でした。
  その富野さんがあるインタビューで、「原作は壮大な世界のイントロダクションにすぎない」
TFC東京支部のインタビュー記事など)といわれています。
  「イントロダクション」??「紹介」ってこと??壮大な紹介ってナニ???
私はこの意味がよく理解できず、ずいぶんなやみました。

  また別の本では「原作が使えない」とも表現しています。(「富野悠季由全仕事」)
また、最近あるTV番組にゲスト出演したとき、「『青いトリトン』(『青のトリトン』と言い間違えていた;;)は最低レベルの原作だった」
なんて問題発言も飛び出しています。これはいったいどういうことなのでしょう。
そんなに原作は妙な話だったのでしょうか。

 私はこう考えます。
原作の世界はそれなりに壮大だけれども、ドラマ性に乏しい、ということではないでしょうか。
 また、イントロダクション(紹介)というのは、こういう世界がありますよ、という舞台設定をした、と言う意味ではないかと思います。

 また多くの手塚マンガや、今TV放映されているアニメがそうであるように漫画が原作のアニメは、漫画のコマがそのまま絵コンテに
なる場合もあります。 設定もそう大幅に変わるものではありません。しかしTV版のトリトンは共通点は名前ぐらいで、印象がちがい、
原作を手にしたときにとまどうほどなのです。

 また、連載漫画のようにすこしづづストーリーを進めていくのではなく、TVでは一回一回の放映が勝負ですから、インパクトの強いエピソードで構成しなくてはなりません。それには原作の個々のエピソードは今ひとつ魅力に乏しかったということなのでしょう。 また新聞連載という制約がいっそうエピソードを細切れにしてしまい、印象が薄くなったのかもしれません。

 それとキャラクターの弱さが目立ち、主人公の原作トリトンが息子のブルーに引き継ぐ役目でしかないところも不満なのかもしれません。死にゆく主人公に子どもの視聴者はついてきません。 またブラックジャックのようなキャラクターの存在がそのままドラマになるような強いエピソードが原作トリトンにはありません。
 また妙に原作トリトンが大人で、自己のアイデンティティ(自分は何者であるか)についての葛藤がないのも寂しい気がします。 わずかに、陸で育った海人、と言う点で、海の生き物の味方をするか、陸人の味方をするか、という立場での葛藤はみられますが、全体にあまり迷いはみられません。

 このような、TV化にするに当たっての原作の「弱さ」を補強するため、TV版トリトンは原作の設定の大元を生かしながらも、キャラクターを大幅に変更し、 より年少の子どもに受け入れられるように、主人公のトリトンやピピをかわいらしく描いています。(羽根さんの談話に、トリトン側を愛らしくかわいらしく、ポセイドン側を劇画調に恐ろしく描くことでメリハリをつけたとあります)
 
またポセイドン族の設定を原作にない人造人間に設定し、原作での「ポセイドンの子ども」という 概念を変え、アトランティスの魔力をうけついだポセイドン族が創造したもの、という設定に変えることにより、悲劇性がましています。
 そして、彼らが本当のポセイドン族、つまりアトランティスの海底都市にすむ住人の「傀儡」だったところが最大のポイントです。
つまり「二重性」を持ったのです。

 トリトン族の設定は手塚氏の「理想の海人」という点からあまりはずれていませんが、このポセイドン族の設定が、TV版特有のオリジナルの設定であり、富野氏の好みや趣向がよく現れた形になっています。
 また、ストーリーラインをギリシアの古典「オデュッセイア」に取り、困難に打ち勝つ主人公、というコンセプトにしたということは、「トリトンで知るギリシア神話」(オデュッセウス)で言及したとおりです。
 
 そしてドラマをトリトン一代にしぼり、原作でのブルーのキャラクターデザインをTVのトリトンに生かすことにより、ずっと受け継がれてきた長い歴史をもつトリトン族、というイメージを出すのに成功しています。
 そして富野氏が、「原作はイントロダクション」というように、原作版のトリトンの活躍を「かつてあったもの」というようにTV版では父の世代に置き換え、TVのトリトンの活躍を原作のブルーの世代に当たるように描いているのも特徴的です。
 またトリトンの年齢を13歳という思春期に設定し、文字通り、思春期の自己の確立に悩む時期と重なり、 「トリトン族」になること=
「一人前の大人」になることという概念になり、それに反発する少年トリトンを描くことにより、精神葛藤ドラマとなっています。
 そして原作トリトンの武器は簡単なナイフぐらいでしたが、TV版トリトンでは「オリハルコンの剣」という魅力的なアイテムをだし、トリトンの力がこの短剣に現れるように設定し、物語の不思議さと神秘さをましています。
 このオリハルコンの設定により、TVのトリトンはヒロイックファンタジーの要素を獲得し、コアなファンのつく作品になっています。
 
 オリハルコンの設定はTV版スタッフの独自のアイデア
ですが、パイロットフィルムでは両手をあわせて発する怪光線となっており、一種の超能力で、それが短剣を輝かせる、と言う設定に変わっていったと思われます。
 一見、手塚原作と離れているようですが、アイデアのベースはやはり手塚氏のものです。

 原作でのピピ子も作画監督の羽根さん(TV版のキャラクターデザイナー)によると「キャラクターが弱い」ということで、手塚氏の人魚関連作品「エンゼルの丘」からデザインを引用し、かわいらしい少女に描くことに成功しています。
 人魚、と言う要素よりも、「少女」の要素が強く、トリトンが「少年」であるのと良い対比です。当然二人の関係は対等になり、その関係で生まれるドラマは躍動的なものになります。
 原作でのピピ子もかわいいのですが、どうしても原作トリトンの「配偶者」イメージが強く、一人で行動する要素に欠けています。これは手塚作品の女性キャラ全般にいえることですが、女性キャラが「母性」のつよい女になってしまうのです。
後半、亡きトリトンの後を継ぐのは当然のように「長男」であるブルーで、妻のピピ子は脇役です。
 これは時代の価値観の相違かもしれません。 後年、「火の鳥2772」で外国人記者から、育児ロボットオルガの母性的役割が強すぎるとの指摘をうけ、また指摘をされるまで、その点に疑問をおぼえなかった事実が一種の彼の限界ではなかったかと思います。手塚さんの育った時代は「銃後」で女性が影になり支える社会でした。

 その他、キャラクターの変更、融合が目立ち、TV版の一平じいさんは、和也+丹下老人のイメージがあると思います。
またTVのトリトンはけっこう血の気が多い性格ですが、これは原作の和也の性向を受け継いでいるようです。ファンの中にはトリトンのことを「弟」のようだと言う方もいますが、これは原作でも「弟」だったからかもしれません。
 それに、「青いトリトン」が新聞連載だったので、「知名度」が低かったことも大胆な改変が可能だったポイントかもしれません。
 

 その他色々ありますが、どうしてもTV版のインパクトが強いのは当時のスタッフが色々検討して、一番印象に残るものを選択した結果であり、また紙の漫画と、TVアニメというメディアの違い、キャラクターの違いなど様々な要素が重なった結果だと思われます。

 しかし、その根底には手塚氏の提供した、海の世界の二つの種族の抗争、理想の海人の設定、そのルーツがアトランティスやムーなどの失われた理想郷にあること、などの要素が横たわっており、TV版はそれらを元に富野さん達が作り上げた、一種の「外伝」なのではないかと言う気がします。

 TV版「海のトリトン」のキャラや設定をつかって外伝や続編を作るファンが多い事実は、作品そのものが「外伝」であると見なせば、それは当然の現象だと納得できます。

 いずれにしても、手塚氏がどのような感想をTV版トリトンに抱いたのか今となっては詳しくわかりませんが、TV版トリトンの背後には必ずベースとなる原作の世界がある、と思えば彼の苦労も少しは報われるのかもしれません。

 先に紹介したTV番組の中で司会者が「トリトンに関しては原作を超えているのでは」という意見もありましたが、超えていると言うより「別の世界を作り出した」という方が、当てはまるのかもしれません。それが当時の時流に乗り、ある程度思春期の人たちの共感を得たということなのでしょう。
 この平成の世にもし原作を元に再アニメ化するとしたら、いったいどのようなものになるか楽しみなような、こわいような。

 あらためて、手塚治虫氏の「海のトリトン」(旧・「青いトリトン」を読み直してみるのも、いいかもしれません。